先祖返りの町作り(再調整版)
第63話 印刷技術の開発目標
エストの結婚式からしばらく経過した頃。
私は今、ヒデオ工房の工房長の部屋で、一人で額に汗を流しながら作業を続けている。
エストの奥方になったローズさんは、現在増築工事中の領主館に引っ越していて、夫婦仲良く新婚生活を送っている。
あれから国王様からの許可も下りて、正式にガイン村は、ガインの町となっていた。同時にエルクも陞爵し、中級貴族になっている。
町の規模からすると領主館はかなり小さくなっていたし、家族が増えた事も加味して、館を増築中だ。
町の拡大と共に領主のエルクの仕事も増加したため、私とエストが領主の業務を一部代行している。
また、今後を考え、町の運営のための官僚を新しく雇う事も、既にエルクは決定している。
普通であれば、官僚は名誉貴族を雇うものだが、我が家は貴族嫌いであるため、平民から募集して教育する事が決まっている。
ここでも、爵位を継げない貴族の次男以下の子弟達が、就職先として自分を売り込みに来る事もあったが、エルクは全ての貴族をすげなく追い返している。
そして私は、領主代行の業務の合間に、ガインの町をさらに発展させるための方策を考えている。
一人で考え事をする時に最近良く使うようになっていた、ヒデオ工房の工房長の部屋で、さらなる発展のための思索を続ける。
「そろそろ、頃合いだと思います。もう少し高度な数学を、教える事にしましょう」
私は考えをまとめるために、最近はすっかり習慣になっている、独り言をつぶやきながら思考をまとめていく。
「やはり、きちんとした教科書を、もっと楽に量産したいですね。そのためには、『印刷』技術しかありません」
この国には印刷技術がないため、本は全て手書きの写本である。そのため、教科書を用意しようとすると、かなりの時間と手間がかかる。
「ここは一気に、『活版印刷』を開発してしまいましょう」
印刷技術には、木の板を削り出す木版印刷や、厚紙等に穴を開けて上からインクを塗って印刷する孔版印刷等があるが、ルネッサンスの大発明として知られる、活版印刷を採用する事にする。
「『活版印刷』であれば、『印刷機』をどうするかですかね。さすがに、グーテンベルクが作ったとされる、圧搾機を改造した『印刷機』は構造を知りません。開発は無理ですね」
活版印刷の簡単な手順は、以下のようなものである。
まず、金属でできた、金属活字と呼ばれる一文字のハンコのようなものを多数用意し、それらを組み合わせて、一ページを印刷するための組版と呼ばれるものを作る。
その組版を木の枠にはめ込み、固定した後に、粘度の高いインクを塗り付けた後、上から紙を乗せ、そのさらに上から台を押さえつけて圧力を加え、印刷するというものだ。
「ここは妥協して、木版画の要領で『印刷』しますか」
グーテンベルクの印刷機があれば、バンバンと機械を叩き付ければ次々に印刷ができるが、構造が分からないので、今後の課題とする。
普通にローラーを使ってインクを塗り、馬連を使って、木版画のように印刷する事を決定する。
私の金属加工の技術を使えば、金属活字の形に加工はできる。
ただ、活版印刷には、この金属活字が大量に必要になるため、私が作ったものを原盤として鍛冶屋に発注し、鋳造で量産する事にする。
グーテンベルクの印刷機のように、上から叩き付ける印刷機を使うのであれば、かなり正確に金属活字の高さをそろえないと、印刷時に紙が破損する恐れがある。
しかし、木版画のようにするのであれば、そこまでの精度は必要ないだろう。
「図形の証明のような『幾何学』も教える事を考えると、『活版印刷』だけではダメですね。ここは、『ガリ版印刷』も開発しましょう」
ガリ版印刷の手順は、以下のようなものだ。
まず、後ろが透けるほどの薄い紙を用意し、それをロウで補強したロウ原紙と呼ばれるものを作る。
次に、先端を丸めた鉄製の針を先端に付けた鉄筆と呼ばれる道具と、網の目状の細かい凹凸を付けた謄写版という道具を用意する。
この謄写版の通称が、ガリ版である。
そして、印刷したいものの上にロウ原紙を透かし、文字や図形を書き写す。
後は、このロウ原紙をガリ版に乗せ、黒く印刷したい部分を鉄筆でなぞってガリ版に押し付け、小さな穴を連続して開ける。
この作業は、原紙を切る、あるいは、ガリを切るとかガリ切りと呼ばれる。
最後に、この穴を開けたロウ原紙の上からインクを塗って印刷する。
少し高度な、一種の孔版印刷技術である。
漢字文化の日本では、全種類の漢字の金属活字を用意する事が難しかったため、盛んに利用されていた時期のあった印刷技術である。
「『ロウ原紙』のための薄い紙は、今のワシ工場でもおそらく作れるでしょう。ただ、『ロウ原紙』を作るための道具の開発が必要ですね」
ロウ原紙を作るためには、薄い紙にロウを均一に薄く塗る必要がある。
凹凸があったり、ロウがぶ厚かったりすると、ガリ切りが正確にできなかったり、細かく開けた穴が、印刷時に簡単にふさがってしまったりするためである。
クッキングシートとアイロンがあればそれらで手作りできると、とあるラノベで読んだが、シリコン製のクッキングシートを開発するよりはマシと、専用の道具を開発する事を決定する。
二つのローラーに溶かしたロウを塗り、その間に紙を挟んで、ロウを紙に薄く塗る道具を作成する事を決定する。
「『ロウ原紙』を作るためのロウも、開発しないといけませんね」
ロウ原紙は細かく穴をあけていくため、簡単にひび割れが入らないような、粘りのあるロウで原紙を補強しなければならない。
「ただ、幸いにも、『冷蔵庫』開発のために様々な樹脂は既に入手していますから、少し頑張ればできるでしょう」
ロウ原紙を作るためのロウは、ロウと松ヤニ等を混ぜて作る。
ゴムの代用品開発のために、樹脂は豊富な種類がこの工房にあるので、そのまま開発する事にする。
「インクも開発しましょう」
この国にもインクはあるが、それなりに高い。
印刷用の粘度の高いインクを用意するため、すすと乾性油の植物油をこねて作る、インクの開発も決定する。
「ただ、インクのためのすすを量産する炭焼き窯も、同時に開発しないといけませんね……」
日本には、伝統的な固形墨を作るための、すすを量産する専用の炭焼き窯がある。
すすを作るためには、油の乗った松等を不完全燃焼させる必要があるため、障子で囲った部屋が必要なはずという、ざっくりとした構造しか覚えていないため、難航が予想される。
「ちょっと、開発目標を欲張り過ぎですね。まずは、インクと『活版印刷』技術の研究から始めましょう」
そして現在、かまどを使用している民家に頼んで集めてもらったすすと、植物油を混ぜながら、印刷用のインクの試作品を作っている。
「かなりの力仕事だとは本に書いてありましたが、私の体力ではちょっと、研究が大変そうです」
私は額の汗をぬぐい、だるくなった腕を振る。
私の今世の体は、それなりに体力も筋力もある。しかし、エルクやエストのような、前衛を張れるほどの体力や筋力はない。
「これは、すすと植物油を混ぜるための魔道具の開発から、進める事にしましょう」
モーターの魔道具があるので、混ぜる魔道具はできるだろう。
この時、ゴムベラのようなものも開発しないといけないが、幸い、ゴムの代用品は冷蔵庫開発で研究している。
完全なゴムベラでなくても、鉄製や木製のヘラの周囲だけゴムの代用品で覆えば良いだろう。
「なんだか、開発しないといけないものがどんどんと増えていきます。少しずつ、一歩ずつやっていきましょう」
そう決意し、私は研究を続ける。